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沖縄領有を示唆する人民日報記事全文

2013.05.11 Sat
人民日報:馬関条約と釣魚島問題を論じる
(釣魚島問題を整理し明らかにするその1)

http://j.peopledaily.com.cn/94474/8237288.html

1972年に日本外務省は「尖閣諸島の領有権についての基本的見解」を発表し「尖閣諸島は我が国の領土たる南西諸島の一部を構成している。また、明治28年5月発効の馬関条約(下関条約)第2条に基づき我が国が清国(清朝)より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない」と主張した。これはいわゆる日本が釣魚島(日本名・尖閣諸島)の領有権を有しているとの根拠の1つとなった。だが事実は果たして本当にそうなのだろうか?(文:張海鵬・中国社会科学院学部委員、李国強・中国社会科学院中国辺彊史地研究センター研究員)

 一、馬関条約及びその第2条に関して

 馬関条約第2条第1項、第3項は遼東半島と澎湖諸島の地理的範囲を明確に定義している。ではなぜ「台湾全島及び其の附属諸島嶼」についてのみ記述を曖昧にしたのか?日本側の公開した馬関条約関連の交渉議事録の記述から、日本政府が条約で台湾の附属島嶼の処理を曖昧に処理した魂胆が見えてくる。

 1895年6月2日に「台湾受け渡しに関する公文」に署名する前、台湾の附属諸島嶼がどの島嶼を含むのかが双方の討論の焦点となった。当時の日本の水野弁理公使と清政府の李経方全権委員との間の討論の摘要が日本の公文書館に保管されており、濱川今日子著『尖閣諸島の領有をめぐる論点』に見える。会談で李は日本が後日、福建省付近に散在する島嶼も台湾附属島嶼と見なして領有権を主張することを懸念し、台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げるべきではないかと尋ねた。水野は「島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや無名の島があった場合の問題を避けがたく、日中いずれにも属さないことになり不都合だ。台湾の附属島嶼はすでに海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の『横はり』があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と見なすことは決してない」と応答した。日本側の姿勢表明に鑑み、李も逐一名を挙げずに処理することに同意した。

 水野の発言は、日本政府が台湾の附属島嶼についてすでに公認の海図や地図があることを認めていたため、台湾受け渡しに関する公文に釣魚島列島を列挙する必要はなかったことを示している。この点から見て、日本政府は事実上釣魚島列島が台湾の附属島嶼であることを認めていたのである。なぜなら、釣魚島列島は公認の海図や地図で早くから中国に属すことが明記されていたからである。また、この対話は馬関条約署名の3カ月前に日本政府が閣議で釣魚島を秘密裏に沖縄県に編入した事実を隠す意図が、会談の日本政府代表である水野にあったことも示している。

 1885年から1895年までの10年間、沖縄県は「国標」を建立することで釣魚島を管轄範囲に組み入れようと企て続けた。だが日本政府は釣魚島が「清国に属している」ことに鑑み、「国標」を建立すれば清国の警戒と争いを引き起こすことを恐れ、ずっと許可しなかった。甲午戦争(日清戦争)の勝利が目前となった時、日本政府は釣魚島列島を奪い取る時機が到来したと感じ、1895年1月14日の閣議で、沖縄県知事の上申に照らして島を沖縄県の所轄とし、標杭の建設を認める決定を秘密裏に行った。だが実際には沖縄県が釣魚島に標杭を直ちに建設することはなかった。井上清教授によると、1969年5月5日になってようやく沖縄県石垣市が長方形の石の標杭を建立した。日本の閣議のこの決定は秘密文書であり、57年後の1962年3月に『日本外交文書』第23巻で対外的に公表された。それまで清政府および国際社会は全く経緯を知らなかった。

 つまり日本政府は長い間、釣魚島の領有権を公に主張しなかったのである。明治天皇は1896年3月の勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」において、釣魚島を明確に組み入れていない。だがこの勅令は日本側によって釣魚島の領有権を有する根拠の1つと見なされており、明らかに世界の人々を欺くものだ。

 日本が釣魚島を「盗み取った」のは決して「平和的方法」によるものではない。近代植民地主義侵略の産物であり、甲午戦争での日本の戦略の一環なのである。中国侵略戦争の勝利を確信したからこそ、日本の内閣は釣魚島を掠め取り、続いて不平等な馬関条約が出現した。そしてまさに馬関条約を通じて、日本はいわゆる条約の形で、釣魚島を「盗み取る」行為の「合法化」を果たしたのである。この歴史過程は明らかで間違いがなく、歴史学者の共通認識である。

二、釣魚島は古くから中国の台湾の附属島嶼である

 中国の歴史文献の記述から、「釣魚島は台湾の附属島嶼である」との事実は明確で間違いない。明朝の嘉靖四十四年(1565)に「日本国への宣諭使」鄭舜功が撰述した『日本一鑑』は澎湖諸島から釣魚島を経て琉球、そして日本へ至る航路を明確に記録。このうち釣魚島は中国の台湾に附属するとして「釣魚嶼、小東小嶼也」と明記している。小東島とは当時の台湾の呼称である。この航路は釣魚島と台湾など島嶼間の地理関係を正確に記録しているのみならず、釣魚嶼が台湾の附属小島であることを明確かつ誤りなく指摘している。『日本一鑑』は政府文書としての性質を備えた史籍であり、明朝政府が釣魚島列島が台湾に属する小島群であることを早くから確認していたことを反映している。

 明・清両代、台湾は福建省の管轄下にあった。光緒十一年(1885)に清政府は台湾について、日本と西側列強の野望と侵略のために防衛状況が厳しく、「府」の行政地位では対処が困難であることから、台湾省の設置を決定した。省設置以前、釣魚島列島は台湾府の管轄島嶼として福建の海防範囲に組み込まれていた。

 明の嘉靖四十一年(1562)に◆浙総督・胡宗憲の幕僚・鄭若曽が著した『籌海図編』の「沿海山沙図」は台湾、釣魚島、黄尾嶼(日本名・久場島)、赤尾嶼(日本名・大正島)等の島嶼が福建の海防範囲に属すことを記録している。万暦三十三年(1605)に徐必達らが作成した『乾坤一統海防全図』および天啓元年(1621)に茅元儀が作成した『武備志・海防衛二・福建沿海山沙図』も釣魚島などの島嶼と台湾を同じ防区として中国の海防範囲内に組み込んでいる。

 清の康煕六十一年(1722)に清政府初の巡台御史に任じられた黄叔巷は、乾隆元年(1736)に「御史巡視台湾」として著した『台海使槎録』(『赤嵌筆談』とも)の巻二「武備」で台湾に属する各港を列挙。釣魚島を中国海防の最前線の要塞と見なした上、釣魚島が行政上早くから台湾府の管轄下にあることを示した。

 『台海使槎録』は公文書であり、極めて影響力があり、その後多くの歴史家に引用された。例えば乾隆年間の『台湾府志』は基本的に上述の内容を引用して、「台湾の港」には「釣魚台島」が含まれるとしている。同様の記述は他の役人の記した公文書でも珍しくない。例えば乾隆十二年(1747)に時の巡視台湾兼学政監察御史・範咸が著した『重修台湾府志』は釣魚島などの島嶼がすでに台湾海防の防衛区域内に組み込まれ、台湾府の管轄下にあることを明確に指摘している。同治十年(1871)刊行の『重纂福建通志』は「台湾府・●瑪蘭庁」で「山の後ろの大洋の北にある釣魚台は、港が深く大船千隻が停泊できる」と記している。同様の記述は余文儀著『続修台湾府志』、李元春著『台湾志略』および陳淑均編纂、李祺生追加編纂《●瑪蘭庁志》等の史籍に見える。

 この他、フランス人のMichel Benoist(中国名・蒋友仁)が1760年に作成した『坤輿全図』の「台湾附属島嶼東北諸島与琉球諸島」は彭嘉、花瓶嶼、釣魚嶼、赤尾嶼等を台湾の附属島嶼の中に配置している。日本の林子平が1785年に出版した『三国通覧図説』付図「琉球三省并三十六島之図」は花瓶嶼、澎佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾山等の島嶼を中国の色で記しており、中国が領有することを物語っている。1809年にフランス人のPierre LapieとAlexandre Lapieの著した『東中国海沿岸図』は釣魚嶼と赤尾嶼を台湾と同じ赤色で描き、八重山、宮古群島と沖縄本島と緑色で描いており、釣魚台列島が台湾の附属島嶼であることをはっきりと示している。

 以上をまとめると、日本側は釣魚島と中国の台湾との歴史的結びつきの分断に躍起になり、馬関条約の「台湾の附属島嶼」に釣魚島が含まれることも再三否認しているが、大量の歴史文献は中国政府が釣魚島を台湾の管轄下に組み込み、海防と行政の両面で釣魚島に対して長期間実効性ある管轄を実施してきたこと、 釣魚島が無主の地ではなく、中国の台湾の附属島嶼であることをはっきりと示している。釣魚島列島は中国漁民が長期間経営しただけでなく、少なくとも明代中頃から中国政府が海防範囲に組み入れ始め、実際の管轄措置を講じてきた。この歴史事実は、日本の言う1895年1月の閣議決定による掠め取りよりも三百数十年早いのである。

三、釣魚島と甲午戦争及び「琉球処分」

 日本の内閣が釣魚島列島を秘密裏に沖縄県の管轄下に組み入れたことは、甲午戦争と関係し、日本の「琉球処分」とも関係する。沖縄は元々琉球王国のあった地だ。琉球王国は独立国家で、明初から明朝皇帝の冊封を受けた、明・清期の中国の藩属国だ。明朝は洪武五年(1372)以降、歴代絶えず冊封使を琉球に派遣した。日本の幕府末期、日本と琉球に隣接する島津藩主が琉球に朝貢を強制したが、琉球王国は従来通り清政府に朝貢し、臣を称した。明治維新後廃藩置県が行われ、明治政府は軍国主義傾向を顕わにし始め、矛先を朝鮮、琉球、中国に向けた。それ以降、日本が様々な口実を利用して琉球、朝鮮、中国を侵略する出来事が時として発生した。1872年に日本は琉球漂流民が台湾南部で現地住民に殺害された事件を利用して、清政府の罪を問うた。琉球の民は日本の属民で、台湾南部の「蕃地」は無主の地という口実だ。日本の派遣した交渉使は清政府総理衙門大臣の述べた台湾の蕃地は「政教の及ばざる所」との概念を「政権の及ばざる地」へとすり替えた。1874年に日本は野蛮に荒々しく台南に派兵・侵入して、中日間に重大な交渉をもたらした。当時まだ清朝と国力で拮抗できなかった日本は、賠償金50万両(テール)を得ると撤兵した。台湾征伐と琉球侵略は同時に進行したのだ。1874年2月に日本政府の決定した「台湾蕃地処分要略」は琉球から清政府への朝貢を阻止するのは、台湾征伐以後の任務としてよいとしている。1875年、日本の天皇は清朝との冊封関係の断絶を琉球に強制的に命じた。1877年末、清朝政府の何如璋駐日公使は東京で琉球問題について考察した結果「朝貢阻止では止まらず必ず琉球を滅ぼす。琉球が滅べば朝鮮に及ぶ」「台湾と澎湖の間は、一日の安寧も得られなくなる」と指摘した。1878年10月、何如璋は日本外務省に口上書を提出し、日本が琉球の清朝への朝貢を阻止していることを「隣国の交わりに背き、弱国を虐げる」ものであり「信義も情理もない」と非難した。1879年、日本政府は軍隊を持たない琉球王国に武力を派遣して強制的に併呑し、沖縄県と改称した。これが日本史上、聞こえの良い言葉で言う「琉球処分」である。

 日本のこの行為に清政府は直ちに抗議。中日間で琉球交渉が行われた。日本は宮古諸島、八重山諸島を中国に帰属させ、琉球本島以北の諸島を日本に帰属させる「分島改約」案を示し、琉球併呑を清政府に承認させようと企んだが、「中日修好条規」(日清修好条規)の改定をその前提条件とした。「修好条規」は1871年に中日間で締結された国交樹立条約であり、平等条約だ。いわゆる条約の改定とは、日本人が中国内で欧米人と全て同等の通商権を享受することを「修好条規」に追加することを清政府に認めさせることである。清政府は北部の島津藩属領だった諸島を日本に帰属させ、琉球本島を中心とする諸島は琉球に返還し、琉球国王の王位も復活し、南部の宮古諸島、八重山諸島は中国に帰属させ、琉球王国復興後琉球に与えるという琉球三分案を提出した。1880年、イリ問題をめぐるロシアとの紛争を処理していた清政府は日本に譲歩して分島改約案で交渉をまとめる準備をした。だが中国側はその後、分島改約案が琉球王国復興の助けにならず、いたずらに中国が権利を喪失することを認識。分島改約案は調印に至らなかった。1882年から1883年の間、中日間ではこの問題についての交渉が依然続けられていた。中日「修好条規」の改定を討論する際、清政府は琉球問題に再び言及したが、日本外相は貿易条項の改定と琉球問題を切り離す考えを表明。清政府の交渉代表はこれに反対した。こうして問題は引き延ばされ続けた。1887年に曽紀沢総理衙門大臣が日本の塩田三郎駐中国大使に琉球問題が未解決であることを提起したが、日本はすでに琉球を自らの懐に入れており、清政府の姿勢を全く顧みなかった。琉球処分問題は中日間の懸案となった。

 つまり1885年から1995年までの間の日本政府(琉球政府を含む)による釣魚島への「国標」設置の議論、及び釣魚島列島の沖縄県への編入という問題は、こうした背景の下で生じたのである。釣魚島への「国標」設置と釣魚島列島の沖縄県編入は、日本が琉球強奪を完了し、さらに台湾に目をつけることと一体化していたのだ。

 馬関条約が締結され、清政府に琉球に再び言及する力はなく、台湾及びその附属諸島(釣魚島諸島を含む)、澎湖諸島、琉球が日本に奪い去られた。だが1941年に中国政府は対日宣戦し、馬関条約を破棄した。その後、日本の天皇はカイロ宣言とポツダム宣言の日本の戦後処理に関する規定を受諾した。これらの規定に基づき、台湾及びその附属諸島、澎湖諸島が中国に復帰するのみならず、歴史上懸案のまま未解決だった琉球問題も再議できる時が到来したのである。(編集NA)

◆は門がまえに虫
●は口へんに葛

 「人民網日本語版」2013年5月9日
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