
中国が、国家級での「琉球自治区委員会」設立か
2014.08.31 Sun
中国系メディアは、中国において、国家レベルでの「中国琉球自治区準備委員会」の設立の動きがあるとの記事を掲載しました。以下はその日本語訳。
绝地反击,成立中国琉球自治区筹备委员会
http://bbs.tiexue.net/post2_7032339_1.html
(上記より一部抜粋)※下線、赤色強調は筆者
绝地反击,成立中国琉球自治区筹备委员会
http://bbs.tiexue.net/post2_7032339_1.html
(上記より一部抜粋)※下線、赤色強調は筆者
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環球時報社説「琉球独立運動をを支援すべき」
2013.05.11 Sat
国共産党機関紙・人民日報系の環球時報は11日付の社説で、「日本が最終的に中国と敵対する選択を取るならば、中国は当面の政府の立場の変更を検討し、琉球(沖縄)問題を歴史的な未解決の懸案として再び提出しなければならない」と訴えました。
※環球時報(簡体字)
http://opinion.huanqiu.com/editorial/2013-05/3924225.html
「中国政府は、沖縄における琉球独立運動を支援すべきである」というのが社説趣旨です。今後の日本政府の出方によっては、これまでの中国の方針を転換し、沖縄回復(沖縄奪還)を外交カードにすべきだとも主張しています。
日本メディアは「日本政府に対するけん制」というやわらかい表現を使っていますが、要するに、沖縄県民を人質にとり、日本政府に脅しをかけているものです。
以下、機械翻訳なので正確性に欠けますが、社説全文の日本語訳です。
--------------
社説:琉球の問題をアクティブにして、政府の立場の下地を変えるためには
(2013/05/11 環球時報社説)
5月8日の1篇の署名入りの文章は、「歴史上の懸案事項で未解決の琉球問題を、ふたたび協議できる時期が到来した」と言及した。日本の方面の反応は強烈で、中国への“抗議”だけではなく、安倍首相は“世界に日本の立場を説明し、中国の不当の主張を否定すべきだ”と主張した。米国国務省は“米国が日本が沖縄の主権を持つことを承認する”という態度を表明した。
中国の学者が政府のメディアの上のひと言に登って日本をこのように緊迫(緊張)させ、彼らはびくびくしている。1971年、米日は沖縄返還協定を締結し、米軍の占領する琉球群島の個人を日本に授けたが、中国の意見を完全に無視した。その違法性がいつさかのぼってすべて法律の原理の根拠があります。
琉球は釣魚島と異なり、歴史の上、琉球国と中国は属領関係にあった。決して中国の版図の一部分ではない。中国は、琉球“回復”を要求するわけではないが、しかし否定的な琉球の今日の状態。東ヨーロッパの版図の変化を見てみて、大国の争いの力が琉球群島の上で何を創造するかを知っています。
もし日本が最終的に中国と敵対することと選ぶならば、中国は現在の政府の立場を変更することを考慮するべきで、琉球問題を歴史の懸案にして再び出すべきです。
台湾、中国とチベットの問題についての態度は、欧米諸国では通常、公式な態度をはっきりさせておらず、エリート部隊が"台湾独立"と "チベット独立"を支持している。琉球についての主権の再議論も、日本に向けての今後の政策のオプションとすべきです。
中国が琉球の会議を開始するために、次の3つのステップを提案する。
まず第一段階として、民間レベルの琉球史研究機関の設立すること。
「琉球王国」復活を目指す組織をサポートすること。
日本による琉球不法占拠の歴史が、世界に広がることを可能にすること。
琉球問題について民間レベルの研究と議論を開くための第一歩であり、中国政府は「参加もせず、反対もしない」対応を取る。
第二段階は、中国に対する日本の姿勢を見極め、中国政府が正式に国際舞台での琉球問題を提示するかどうかを判断します。政府は、国際舞台では当たり前である主要な地政学的問題の位置を調整します。必要な場合は、中国政府はこのカードを行使する必要があります。
第三段階は、日本が中国の台頭を破壊する急先鋒になるならば、中国は将来的に沖縄地区に『琉球国復活』に向けた勢力を育成しなければならない。さらに20~30年を経て中国の実力が強大になれば、決して幻想ではない。日本は米国では、中国の将来にバインドされて脅威である場合には、中国は日本から琉球は本当の脅威になるようにさせなければならない。これは非常に公平です。
日本は、多くの犯罪を犯した国です。今日では国際戦略環境、歴史問題の否定が穏やか好むかもしれませんが、より多くの痛みより風を弱体化することが最も活発な工作員になった。中国は、日本に対して友好的にコミットしたが、今我々は最終的に"良い"日本は嫌がらせと対立のような政治的な海賊を放棄せざるを得、米国の別の力 "に、修復することはありませんが、理解されています。
おそらく中日は三十年東、西三年"の上昇を達成するために、お互いを刺激する運命。これら二つの国が友達を作るには余りにも困難であり、私たちは何十年もの相手のために行うために降りてみましょう。
平和的、長期的なゲームで、 "21世紀の文明の敵を作ったことができます。中国の総合国力は日本、私たちの手で約歴史グリップで和平イニシアティブを超えています。
中国は琉球問題は中国を分割するための活動に従事するための外部的な理由が大きくなり再起動を心配する必要はありません。中国が発生しない限り、経済的および社会的衰退にポイントを回す、分離主義の脅威は過去のものですが、極端な事象の境界領域の性質は、実際には緩やかな変化である。中国の将来は完全に"国民の疑問"を解決することができ、外部からの影響が小さくなってします。
中国で記録された日本の不況の恨みとして、中国の発展は国際的な環境の弾圧を受けた、私たちの戦略的な画期的な日本では選択されます。琉球問題は、様々な可能性に対応できるように開いている必要があります。
※環球時報(簡体字)
http://opinion.huanqiu.com/editorial/2013-05/3924225.html
「中国政府は、沖縄における琉球独立運動を支援すべきである」というのが社説趣旨です。今後の日本政府の出方によっては、これまでの中国の方針を転換し、沖縄回復(沖縄奪還)を外交カードにすべきだとも主張しています。
日本メディアは「日本政府に対するけん制」というやわらかい表現を使っていますが、要するに、沖縄県民を人質にとり、日本政府に脅しをかけているものです。
以下、機械翻訳なので正確性に欠けますが、社説全文の日本語訳です。
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社説:琉球の問題をアクティブにして、政府の立場の下地を変えるためには
(2013/05/11 環球時報社説)
5月8日の1篇の署名入りの文章は、「歴史上の懸案事項で未解決の琉球問題を、ふたたび協議できる時期が到来した」と言及した。日本の方面の反応は強烈で、中国への“抗議”だけではなく、安倍首相は“世界に日本の立場を説明し、中国の不当の主張を否定すべきだ”と主張した。米国国務省は“米国が日本が沖縄の主権を持つことを承認する”という態度を表明した。
中国の学者が政府のメディアの上のひと言に登って日本をこのように緊迫(緊張)させ、彼らはびくびくしている。1971年、米日は沖縄返還協定を締結し、米軍の占領する琉球群島の個人を日本に授けたが、中国の意見を完全に無視した。その違法性がいつさかのぼってすべて法律の原理の根拠があります。
琉球は釣魚島と異なり、歴史の上、琉球国と中国は属領関係にあった。決して中国の版図の一部分ではない。中国は、琉球“回復”を要求するわけではないが、しかし否定的な琉球の今日の状態。東ヨーロッパの版図の変化を見てみて、大国の争いの力が琉球群島の上で何を創造するかを知っています。
もし日本が最終的に中国と敵対することと選ぶならば、中国は現在の政府の立場を変更することを考慮するべきで、琉球問題を歴史の懸案にして再び出すべきです。
台湾、中国とチベットの問題についての態度は、欧米諸国では通常、公式な態度をはっきりさせておらず、エリート部隊が"台湾独立"と "チベット独立"を支持している。琉球についての主権の再議論も、日本に向けての今後の政策のオプションとすべきです。
中国が琉球の会議を開始するために、次の3つのステップを提案する。
まず第一段階として、民間レベルの琉球史研究機関の設立すること。
「琉球王国」復活を目指す組織をサポートすること。
日本による琉球不法占拠の歴史が、世界に広がることを可能にすること。
琉球問題について民間レベルの研究と議論を開くための第一歩であり、中国政府は「参加もせず、反対もしない」対応を取る。
第二段階は、中国に対する日本の姿勢を見極め、中国政府が正式に国際舞台での琉球問題を提示するかどうかを判断します。政府は、国際舞台では当たり前である主要な地政学的問題の位置を調整します。必要な場合は、中国政府はこのカードを行使する必要があります。
第三段階は、日本が中国の台頭を破壊する急先鋒になるならば、中国は将来的に沖縄地区に『琉球国復活』に向けた勢力を育成しなければならない。さらに20~30年を経て中国の実力が強大になれば、決して幻想ではない。日本は米国では、中国の将来にバインドされて脅威である場合には、中国は日本から琉球は本当の脅威になるようにさせなければならない。これは非常に公平です。
日本は、多くの犯罪を犯した国です。今日では国際戦略環境、歴史問題の否定が穏やか好むかもしれませんが、より多くの痛みより風を弱体化することが最も活発な工作員になった。中国は、日本に対して友好的にコミットしたが、今我々は最終的に"良い"日本は嫌がらせと対立のような政治的な海賊を放棄せざるを得、米国の別の力 "に、修復することはありませんが、理解されています。
おそらく中日は三十年東、西三年"の上昇を達成するために、お互いを刺激する運命。これら二つの国が友達を作るには余りにも困難であり、私たちは何十年もの相手のために行うために降りてみましょう。
平和的、長期的なゲームで、 "21世紀の文明の敵を作ったことができます。中国の総合国力は日本、私たちの手で約歴史グリップで和平イニシアティブを超えています。
中国は琉球問題は中国を分割するための活動に従事するための外部的な理由が大きくなり再起動を心配する必要はありません。中国が発生しない限り、経済的および社会的衰退にポイントを回す、分離主義の脅威は過去のものですが、極端な事象の境界領域の性質は、実際には緩やかな変化である。中国の将来は完全に"国民の疑問"を解決することができ、外部からの影響が小さくなってします。
中国で記録された日本の不況の恨みとして、中国の発展は国際的な環境の弾圧を受けた、私たちの戦略的な画期的な日本では選択されます。琉球問題は、様々な可能性に対応できるように開いている必要があります。
沖縄領有を示唆する人民日報記事全文
2013.05.11 Sat
人民日報:馬関条約と釣魚島問題を論じる
(釣魚島問題を整理し明らかにするその1)
http://j.peopledaily.com.cn/94474/8237288.html
1972年に日本外務省は「尖閣諸島の領有権についての基本的見解」を発表し「尖閣諸島は我が国の領土たる南西諸島の一部を構成している。また、明治28年5月発効の馬関条約(下関条約)第2条に基づき我が国が清国(清朝)より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない」と主張した。これはいわゆる日本が釣魚島(日本名・尖閣諸島)の領有権を有しているとの根拠の1つとなった。だが事実は果たして本当にそうなのだろうか?(文:張海鵬・中国社会科学院学部委員、李国強・中国社会科学院中国辺彊史地研究センター研究員)
一、馬関条約及びその第2条に関して
馬関条約第2条第1項、第3項は遼東半島と澎湖諸島の地理的範囲を明確に定義している。ではなぜ「台湾全島及び其の附属諸島嶼」についてのみ記述を曖昧にしたのか?日本側の公開した馬関条約関連の交渉議事録の記述から、日本政府が条約で台湾の附属島嶼の処理を曖昧に処理した魂胆が見えてくる。
1895年6月2日に「台湾受け渡しに関する公文」に署名する前、台湾の附属諸島嶼がどの島嶼を含むのかが双方の討論の焦点となった。当時の日本の水野弁理公使と清政府の李経方全権委員との間の討論の摘要が日本の公文書館に保管されており、濱川今日子著『尖閣諸島の領有をめぐる論点』に見える。会談で李は日本が後日、福建省付近に散在する島嶼も台湾附属島嶼と見なして領有権を主張することを懸念し、台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げるべきではないかと尋ねた。水野は「島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや無名の島があった場合の問題を避けがたく、日中いずれにも属さないことになり不都合だ。台湾の附属島嶼はすでに海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の『横はり』があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と見なすことは決してない」と応答した。日本側の姿勢表明に鑑み、李も逐一名を挙げずに処理することに同意した。
水野の発言は、日本政府が台湾の附属島嶼についてすでに公認の海図や地図があることを認めていたため、台湾受け渡しに関する公文に釣魚島列島を列挙する必要はなかったことを示している。この点から見て、日本政府は事実上釣魚島列島が台湾の附属島嶼であることを認めていたのである。なぜなら、釣魚島列島は公認の海図や地図で早くから中国に属すことが明記されていたからである。また、この対話は馬関条約署名の3カ月前に日本政府が閣議で釣魚島を秘密裏に沖縄県に編入した事実を隠す意図が、会談の日本政府代表である水野にあったことも示している。
1885年から1895年までの10年間、沖縄県は「国標」を建立することで釣魚島を管轄範囲に組み入れようと企て続けた。だが日本政府は釣魚島が「清国に属している」ことに鑑み、「国標」を建立すれば清国の警戒と争いを引き起こすことを恐れ、ずっと許可しなかった。甲午戦争(日清戦争)の勝利が目前となった時、日本政府は釣魚島列島を奪い取る時機が到来したと感じ、1895年1月14日の閣議で、沖縄県知事の上申に照らして島を沖縄県の所轄とし、標杭の建設を認める決定を秘密裏に行った。だが実際には沖縄県が釣魚島に標杭を直ちに建設することはなかった。井上清教授によると、1969年5月5日になってようやく沖縄県石垣市が長方形の石の標杭を建立した。日本の閣議のこの決定は秘密文書であり、57年後の1962年3月に『日本外交文書』第23巻で対外的に公表された。それまで清政府および国際社会は全く経緯を知らなかった。
つまり日本政府は長い間、釣魚島の領有権を公に主張しなかったのである。明治天皇は1896年3月の勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」において、釣魚島を明確に組み入れていない。だがこの勅令は日本側によって釣魚島の領有権を有する根拠の1つと見なされており、明らかに世界の人々を欺くものだ。
日本が釣魚島を「盗み取った」のは決して「平和的方法」によるものではない。近代植民地主義侵略の産物であり、甲午戦争での日本の戦略の一環なのである。中国侵略戦争の勝利を確信したからこそ、日本の内閣は釣魚島を掠め取り、続いて不平等な馬関条約が出現した。そしてまさに馬関条約を通じて、日本はいわゆる条約の形で、釣魚島を「盗み取る」行為の「合法化」を果たしたのである。この歴史過程は明らかで間違いがなく、歴史学者の共通認識である。
二、釣魚島は古くから中国の台湾の附属島嶼である
中国の歴史文献の記述から、「釣魚島は台湾の附属島嶼である」との事実は明確で間違いない。明朝の嘉靖四十四年(1565)に「日本国への宣諭使」鄭舜功が撰述した『日本一鑑』は澎湖諸島から釣魚島を経て琉球、そして日本へ至る航路を明確に記録。このうち釣魚島は中国の台湾に附属するとして「釣魚嶼、小東小嶼也」と明記している。小東島とは当時の台湾の呼称である。この航路は釣魚島と台湾など島嶼間の地理関係を正確に記録しているのみならず、釣魚嶼が台湾の附属小島であることを明確かつ誤りなく指摘している。『日本一鑑』は政府文書としての性質を備えた史籍であり、明朝政府が釣魚島列島が台湾に属する小島群であることを早くから確認していたことを反映している。
明・清両代、台湾は福建省の管轄下にあった。光緒十一年(1885)に清政府は台湾について、日本と西側列強の野望と侵略のために防衛状況が厳しく、「府」の行政地位では対処が困難であることから、台湾省の設置を決定した。省設置以前、釣魚島列島は台湾府の管轄島嶼として福建の海防範囲に組み込まれていた。
明の嘉靖四十一年(1562)に◆浙総督・胡宗憲の幕僚・鄭若曽が著した『籌海図編』の「沿海山沙図」は台湾、釣魚島、黄尾嶼(日本名・久場島)、赤尾嶼(日本名・大正島)等の島嶼が福建の海防範囲に属すことを記録している。万暦三十三年(1605)に徐必達らが作成した『乾坤一統海防全図』および天啓元年(1621)に茅元儀が作成した『武備志・海防衛二・福建沿海山沙図』も釣魚島などの島嶼と台湾を同じ防区として中国の海防範囲内に組み込んでいる。
清の康煕六十一年(1722)に清政府初の巡台御史に任じられた黄叔巷は、乾隆元年(1736)に「御史巡視台湾」として著した『台海使槎録』(『赤嵌筆談』とも)の巻二「武備」で台湾に属する各港を列挙。釣魚島を中国海防の最前線の要塞と見なした上、釣魚島が行政上早くから台湾府の管轄下にあることを示した。
『台海使槎録』は公文書であり、極めて影響力があり、その後多くの歴史家に引用された。例えば乾隆年間の『台湾府志』は基本的に上述の内容を引用して、「台湾の港」には「釣魚台島」が含まれるとしている。同様の記述は他の役人の記した公文書でも珍しくない。例えば乾隆十二年(1747)に時の巡視台湾兼学政監察御史・範咸が著した『重修台湾府志』は釣魚島などの島嶼がすでに台湾海防の防衛区域内に組み込まれ、台湾府の管轄下にあることを明確に指摘している。同治十年(1871)刊行の『重纂福建通志』は「台湾府・●瑪蘭庁」で「山の後ろの大洋の北にある釣魚台は、港が深く大船千隻が停泊できる」と記している。同様の記述は余文儀著『続修台湾府志』、李元春著『台湾志略』および陳淑均編纂、李祺生追加編纂《●瑪蘭庁志》等の史籍に見える。
この他、フランス人のMichel Benoist(中国名・蒋友仁)が1760年に作成した『坤輿全図』の「台湾附属島嶼東北諸島与琉球諸島」は彭嘉、花瓶嶼、釣魚嶼、赤尾嶼等を台湾の附属島嶼の中に配置している。日本の林子平が1785年に出版した『三国通覧図説』付図「琉球三省并三十六島之図」は花瓶嶼、澎佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾山等の島嶼を中国の色で記しており、中国が領有することを物語っている。1809年にフランス人のPierre LapieとAlexandre Lapieの著した『東中国海沿岸図』は釣魚嶼と赤尾嶼を台湾と同じ赤色で描き、八重山、宮古群島と沖縄本島と緑色で描いており、釣魚台列島が台湾の附属島嶼であることをはっきりと示している。
以上をまとめると、日本側は釣魚島と中国の台湾との歴史的結びつきの分断に躍起になり、馬関条約の「台湾の附属島嶼」に釣魚島が含まれることも再三否認しているが、大量の歴史文献は中国政府が釣魚島を台湾の管轄下に組み込み、海防と行政の両面で釣魚島に対して長期間実効性ある管轄を実施してきたこと、 釣魚島が無主の地ではなく、中国の台湾の附属島嶼であることをはっきりと示している。釣魚島列島は中国漁民が長期間経営しただけでなく、少なくとも明代中頃から中国政府が海防範囲に組み入れ始め、実際の管轄措置を講じてきた。この歴史事実は、日本の言う1895年1月の閣議決定による掠め取りよりも三百数十年早いのである。
三、釣魚島と甲午戦争及び「琉球処分」
日本の内閣が釣魚島列島を秘密裏に沖縄県の管轄下に組み入れたことは、甲午戦争と関係し、日本の「琉球処分」とも関係する。沖縄は元々琉球王国のあった地だ。琉球王国は独立国家で、明初から明朝皇帝の冊封を受けた、明・清期の中国の藩属国だ。明朝は洪武五年(1372)以降、歴代絶えず冊封使を琉球に派遣した。日本の幕府末期、日本と琉球に隣接する島津藩主が琉球に朝貢を強制したが、琉球王国は従来通り清政府に朝貢し、臣を称した。明治維新後廃藩置県が行われ、明治政府は軍国主義傾向を顕わにし始め、矛先を朝鮮、琉球、中国に向けた。それ以降、日本が様々な口実を利用して琉球、朝鮮、中国を侵略する出来事が時として発生した。1872年に日本は琉球漂流民が台湾南部で現地住民に殺害された事件を利用して、清政府の罪を問うた。琉球の民は日本の属民で、台湾南部の「蕃地」は無主の地という口実だ。日本の派遣した交渉使は清政府総理衙門大臣の述べた台湾の蕃地は「政教の及ばざる所」との概念を「政権の及ばざる地」へとすり替えた。1874年に日本は野蛮に荒々しく台南に派兵・侵入して、中日間に重大な交渉をもたらした。当時まだ清朝と国力で拮抗できなかった日本は、賠償金50万両(テール)を得ると撤兵した。台湾征伐と琉球侵略は同時に進行したのだ。1874年2月に日本政府の決定した「台湾蕃地処分要略」は琉球から清政府への朝貢を阻止するのは、台湾征伐以後の任務としてよいとしている。1875年、日本の天皇は清朝との冊封関係の断絶を琉球に強制的に命じた。1877年末、清朝政府の何如璋駐日公使は東京で琉球問題について考察した結果「朝貢阻止では止まらず必ず琉球を滅ぼす。琉球が滅べば朝鮮に及ぶ」「台湾と澎湖の間は、一日の安寧も得られなくなる」と指摘した。1878年10月、何如璋は日本外務省に口上書を提出し、日本が琉球の清朝への朝貢を阻止していることを「隣国の交わりに背き、弱国を虐げる」ものであり「信義も情理もない」と非難した。1879年、日本政府は軍隊を持たない琉球王国に武力を派遣して強制的に併呑し、沖縄県と改称した。これが日本史上、聞こえの良い言葉で言う「琉球処分」である。
日本のこの行為に清政府は直ちに抗議。中日間で琉球交渉が行われた。日本は宮古諸島、八重山諸島を中国に帰属させ、琉球本島以北の諸島を日本に帰属させる「分島改約」案を示し、琉球併呑を清政府に承認させようと企んだが、「中日修好条規」(日清修好条規)の改定をその前提条件とした。「修好条規」は1871年に中日間で締結された国交樹立条約であり、平等条約だ。いわゆる条約の改定とは、日本人が中国内で欧米人と全て同等の通商権を享受することを「修好条規」に追加することを清政府に認めさせることである。清政府は北部の島津藩属領だった諸島を日本に帰属させ、琉球本島を中心とする諸島は琉球に返還し、琉球国王の王位も復活し、南部の宮古諸島、八重山諸島は中国に帰属させ、琉球王国復興後琉球に与えるという琉球三分案を提出した。1880年、イリ問題をめぐるロシアとの紛争を処理していた清政府は日本に譲歩して分島改約案で交渉をまとめる準備をした。だが中国側はその後、分島改約案が琉球王国復興の助けにならず、いたずらに中国が権利を喪失することを認識。分島改約案は調印に至らなかった。1882年から1883年の間、中日間ではこの問題についての交渉が依然続けられていた。中日「修好条規」の改定を討論する際、清政府は琉球問題に再び言及したが、日本外相は貿易条項の改定と琉球問題を切り離す考えを表明。清政府の交渉代表はこれに反対した。こうして問題は引き延ばされ続けた。1887年に曽紀沢総理衙門大臣が日本の塩田三郎駐中国大使に琉球問題が未解決であることを提起したが、日本はすでに琉球を自らの懐に入れており、清政府の姿勢を全く顧みなかった。琉球処分問題は中日間の懸案となった。
つまり1885年から1995年までの間の日本政府(琉球政府を含む)による釣魚島への「国標」設置の議論、及び釣魚島列島の沖縄県への編入という問題は、こうした背景の下で生じたのである。釣魚島への「国標」設置と釣魚島列島の沖縄県編入は、日本が琉球強奪を完了し、さらに台湾に目をつけることと一体化していたのだ。
馬関条約が締結され、清政府に琉球に再び言及する力はなく、台湾及びその附属諸島(釣魚島諸島を含む)、澎湖諸島、琉球が日本に奪い去られた。だが1941年に中国政府は対日宣戦し、馬関条約を破棄した。その後、日本の天皇はカイロ宣言とポツダム宣言の日本の戦後処理に関する規定を受諾した。これらの規定に基づき、台湾及びその附属諸島、澎湖諸島が中国に復帰するのみならず、歴史上懸案のまま未解決だった琉球問題も再議できる時が到来したのである。(編集NA)
◆は門がまえに虫
●は口へんに葛
「人民網日本語版」2013年5月9日
(釣魚島問題を整理し明らかにするその1)
http://j.peopledaily.com.cn/94474/8237288.html
1972年に日本外務省は「尖閣諸島の領有権についての基本的見解」を発表し「尖閣諸島は我が国の領土たる南西諸島の一部を構成している。また、明治28年5月発効の馬関条約(下関条約)第2条に基づき我が国が清国(清朝)より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない」と主張した。これはいわゆる日本が釣魚島(日本名・尖閣諸島)の領有権を有しているとの根拠の1つとなった。だが事実は果たして本当にそうなのだろうか?(文:張海鵬・中国社会科学院学部委員、李国強・中国社会科学院中国辺彊史地研究センター研究員)
一、馬関条約及びその第2条に関して
馬関条約第2条第1項、第3項は遼東半島と澎湖諸島の地理的範囲を明確に定義している。ではなぜ「台湾全島及び其の附属諸島嶼」についてのみ記述を曖昧にしたのか?日本側の公開した馬関条約関連の交渉議事録の記述から、日本政府が条約で台湾の附属島嶼の処理を曖昧に処理した魂胆が見えてくる。
1895年6月2日に「台湾受け渡しに関する公文」に署名する前、台湾の附属諸島嶼がどの島嶼を含むのかが双方の討論の焦点となった。当時の日本の水野弁理公使と清政府の李経方全権委員との間の討論の摘要が日本の公文書館に保管されており、濱川今日子著『尖閣諸島の領有をめぐる論点』に見える。会談で李は日本が後日、福建省付近に散在する島嶼も台湾附属島嶼と見なして領有権を主張することを懸念し、台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げるべきではないかと尋ねた。水野は「島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや無名の島があった場合の問題を避けがたく、日中いずれにも属さないことになり不都合だ。台湾の附属島嶼はすでに海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の『横はり』があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と見なすことは決してない」と応答した。日本側の姿勢表明に鑑み、李も逐一名を挙げずに処理することに同意した。
水野の発言は、日本政府が台湾の附属島嶼についてすでに公認の海図や地図があることを認めていたため、台湾受け渡しに関する公文に釣魚島列島を列挙する必要はなかったことを示している。この点から見て、日本政府は事実上釣魚島列島が台湾の附属島嶼であることを認めていたのである。なぜなら、釣魚島列島は公認の海図や地図で早くから中国に属すことが明記されていたからである。また、この対話は馬関条約署名の3カ月前に日本政府が閣議で釣魚島を秘密裏に沖縄県に編入した事実を隠す意図が、会談の日本政府代表である水野にあったことも示している。
1885年から1895年までの10年間、沖縄県は「国標」を建立することで釣魚島を管轄範囲に組み入れようと企て続けた。だが日本政府は釣魚島が「清国に属している」ことに鑑み、「国標」を建立すれば清国の警戒と争いを引き起こすことを恐れ、ずっと許可しなかった。甲午戦争(日清戦争)の勝利が目前となった時、日本政府は釣魚島列島を奪い取る時機が到来したと感じ、1895年1月14日の閣議で、沖縄県知事の上申に照らして島を沖縄県の所轄とし、標杭の建設を認める決定を秘密裏に行った。だが実際には沖縄県が釣魚島に標杭を直ちに建設することはなかった。井上清教授によると、1969年5月5日になってようやく沖縄県石垣市が長方形の石の標杭を建立した。日本の閣議のこの決定は秘密文書であり、57年後の1962年3月に『日本外交文書』第23巻で対外的に公表された。それまで清政府および国際社会は全く経緯を知らなかった。
つまり日本政府は長い間、釣魚島の領有権を公に主張しなかったのである。明治天皇は1896年3月の勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」において、釣魚島を明確に組み入れていない。だがこの勅令は日本側によって釣魚島の領有権を有する根拠の1つと見なされており、明らかに世界の人々を欺くものだ。
日本が釣魚島を「盗み取った」のは決して「平和的方法」によるものではない。近代植民地主義侵略の産物であり、甲午戦争での日本の戦略の一環なのである。中国侵略戦争の勝利を確信したからこそ、日本の内閣は釣魚島を掠め取り、続いて不平等な馬関条約が出現した。そしてまさに馬関条約を通じて、日本はいわゆる条約の形で、釣魚島を「盗み取る」行為の「合法化」を果たしたのである。この歴史過程は明らかで間違いがなく、歴史学者の共通認識である。
二、釣魚島は古くから中国の台湾の附属島嶼である
中国の歴史文献の記述から、「釣魚島は台湾の附属島嶼である」との事実は明確で間違いない。明朝の嘉靖四十四年(1565)に「日本国への宣諭使」鄭舜功が撰述した『日本一鑑』は澎湖諸島から釣魚島を経て琉球、そして日本へ至る航路を明確に記録。このうち釣魚島は中国の台湾に附属するとして「釣魚嶼、小東小嶼也」と明記している。小東島とは当時の台湾の呼称である。この航路は釣魚島と台湾など島嶼間の地理関係を正確に記録しているのみならず、釣魚嶼が台湾の附属小島であることを明確かつ誤りなく指摘している。『日本一鑑』は政府文書としての性質を備えた史籍であり、明朝政府が釣魚島列島が台湾に属する小島群であることを早くから確認していたことを反映している。
明・清両代、台湾は福建省の管轄下にあった。光緒十一年(1885)に清政府は台湾について、日本と西側列強の野望と侵略のために防衛状況が厳しく、「府」の行政地位では対処が困難であることから、台湾省の設置を決定した。省設置以前、釣魚島列島は台湾府の管轄島嶼として福建の海防範囲に組み込まれていた。
明の嘉靖四十一年(1562)に◆浙総督・胡宗憲の幕僚・鄭若曽が著した『籌海図編』の「沿海山沙図」は台湾、釣魚島、黄尾嶼(日本名・久場島)、赤尾嶼(日本名・大正島)等の島嶼が福建の海防範囲に属すことを記録している。万暦三十三年(1605)に徐必達らが作成した『乾坤一統海防全図』および天啓元年(1621)に茅元儀が作成した『武備志・海防衛二・福建沿海山沙図』も釣魚島などの島嶼と台湾を同じ防区として中国の海防範囲内に組み込んでいる。
清の康煕六十一年(1722)に清政府初の巡台御史に任じられた黄叔巷は、乾隆元年(1736)に「御史巡視台湾」として著した『台海使槎録』(『赤嵌筆談』とも)の巻二「武備」で台湾に属する各港を列挙。釣魚島を中国海防の最前線の要塞と見なした上、釣魚島が行政上早くから台湾府の管轄下にあることを示した。
『台海使槎録』は公文書であり、極めて影響力があり、その後多くの歴史家に引用された。例えば乾隆年間の『台湾府志』は基本的に上述の内容を引用して、「台湾の港」には「釣魚台島」が含まれるとしている。同様の記述は他の役人の記した公文書でも珍しくない。例えば乾隆十二年(1747)に時の巡視台湾兼学政監察御史・範咸が著した『重修台湾府志』は釣魚島などの島嶼がすでに台湾海防の防衛区域内に組み込まれ、台湾府の管轄下にあることを明確に指摘している。同治十年(1871)刊行の『重纂福建通志』は「台湾府・●瑪蘭庁」で「山の後ろの大洋の北にある釣魚台は、港が深く大船千隻が停泊できる」と記している。同様の記述は余文儀著『続修台湾府志』、李元春著『台湾志略』および陳淑均編纂、李祺生追加編纂《●瑪蘭庁志》等の史籍に見える。
この他、フランス人のMichel Benoist(中国名・蒋友仁)が1760年に作成した『坤輿全図』の「台湾附属島嶼東北諸島与琉球諸島」は彭嘉、花瓶嶼、釣魚嶼、赤尾嶼等を台湾の附属島嶼の中に配置している。日本の林子平が1785年に出版した『三国通覧図説』付図「琉球三省并三十六島之図」は花瓶嶼、澎佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾山等の島嶼を中国の色で記しており、中国が領有することを物語っている。1809年にフランス人のPierre LapieとAlexandre Lapieの著した『東中国海沿岸図』は釣魚嶼と赤尾嶼を台湾と同じ赤色で描き、八重山、宮古群島と沖縄本島と緑色で描いており、釣魚台列島が台湾の附属島嶼であることをはっきりと示している。
以上をまとめると、日本側は釣魚島と中国の台湾との歴史的結びつきの分断に躍起になり、馬関条約の「台湾の附属島嶼」に釣魚島が含まれることも再三否認しているが、大量の歴史文献は中国政府が釣魚島を台湾の管轄下に組み込み、海防と行政の両面で釣魚島に対して長期間実効性ある管轄を実施してきたこと、 釣魚島が無主の地ではなく、中国の台湾の附属島嶼であることをはっきりと示している。釣魚島列島は中国漁民が長期間経営しただけでなく、少なくとも明代中頃から中国政府が海防範囲に組み入れ始め、実際の管轄措置を講じてきた。この歴史事実は、日本の言う1895年1月の閣議決定による掠め取りよりも三百数十年早いのである。
三、釣魚島と甲午戦争及び「琉球処分」
日本の内閣が釣魚島列島を秘密裏に沖縄県の管轄下に組み入れたことは、甲午戦争と関係し、日本の「琉球処分」とも関係する。沖縄は元々琉球王国のあった地だ。琉球王国は独立国家で、明初から明朝皇帝の冊封を受けた、明・清期の中国の藩属国だ。明朝は洪武五年(1372)以降、歴代絶えず冊封使を琉球に派遣した。日本の幕府末期、日本と琉球に隣接する島津藩主が琉球に朝貢を強制したが、琉球王国は従来通り清政府に朝貢し、臣を称した。明治維新後廃藩置県が行われ、明治政府は軍国主義傾向を顕わにし始め、矛先を朝鮮、琉球、中国に向けた。それ以降、日本が様々な口実を利用して琉球、朝鮮、中国を侵略する出来事が時として発生した。1872年に日本は琉球漂流民が台湾南部で現地住民に殺害された事件を利用して、清政府の罪を問うた。琉球の民は日本の属民で、台湾南部の「蕃地」は無主の地という口実だ。日本の派遣した交渉使は清政府総理衙門大臣の述べた台湾の蕃地は「政教の及ばざる所」との概念を「政権の及ばざる地」へとすり替えた。1874年に日本は野蛮に荒々しく台南に派兵・侵入して、中日間に重大な交渉をもたらした。当時まだ清朝と国力で拮抗できなかった日本は、賠償金50万両(テール)を得ると撤兵した。台湾征伐と琉球侵略は同時に進行したのだ。1874年2月に日本政府の決定した「台湾蕃地処分要略」は琉球から清政府への朝貢を阻止するのは、台湾征伐以後の任務としてよいとしている。1875年、日本の天皇は清朝との冊封関係の断絶を琉球に強制的に命じた。1877年末、清朝政府の何如璋駐日公使は東京で琉球問題について考察した結果「朝貢阻止では止まらず必ず琉球を滅ぼす。琉球が滅べば朝鮮に及ぶ」「台湾と澎湖の間は、一日の安寧も得られなくなる」と指摘した。1878年10月、何如璋は日本外務省に口上書を提出し、日本が琉球の清朝への朝貢を阻止していることを「隣国の交わりに背き、弱国を虐げる」ものであり「信義も情理もない」と非難した。1879年、日本政府は軍隊を持たない琉球王国に武力を派遣して強制的に併呑し、沖縄県と改称した。これが日本史上、聞こえの良い言葉で言う「琉球処分」である。
日本のこの行為に清政府は直ちに抗議。中日間で琉球交渉が行われた。日本は宮古諸島、八重山諸島を中国に帰属させ、琉球本島以北の諸島を日本に帰属させる「分島改約」案を示し、琉球併呑を清政府に承認させようと企んだが、「中日修好条規」(日清修好条規)の改定をその前提条件とした。「修好条規」は1871年に中日間で締結された国交樹立条約であり、平等条約だ。いわゆる条約の改定とは、日本人が中国内で欧米人と全て同等の通商権を享受することを「修好条規」に追加することを清政府に認めさせることである。清政府は北部の島津藩属領だった諸島を日本に帰属させ、琉球本島を中心とする諸島は琉球に返還し、琉球国王の王位も復活し、南部の宮古諸島、八重山諸島は中国に帰属させ、琉球王国復興後琉球に与えるという琉球三分案を提出した。1880年、イリ問題をめぐるロシアとの紛争を処理していた清政府は日本に譲歩して分島改約案で交渉をまとめる準備をした。だが中国側はその後、分島改約案が琉球王国復興の助けにならず、いたずらに中国が権利を喪失することを認識。分島改約案は調印に至らなかった。1882年から1883年の間、中日間ではこの問題についての交渉が依然続けられていた。中日「修好条規」の改定を討論する際、清政府は琉球問題に再び言及したが、日本外相は貿易条項の改定と琉球問題を切り離す考えを表明。清政府の交渉代表はこれに反対した。こうして問題は引き延ばされ続けた。1887年に曽紀沢総理衙門大臣が日本の塩田三郎駐中国大使に琉球問題が未解決であることを提起したが、日本はすでに琉球を自らの懐に入れており、清政府の姿勢を全く顧みなかった。琉球処分問題は中日間の懸案となった。
つまり1885年から1995年までの間の日本政府(琉球政府を含む)による釣魚島への「国標」設置の議論、及び釣魚島列島の沖縄県への編入という問題は、こうした背景の下で生じたのである。釣魚島への「国標」設置と釣魚島列島の沖縄県編入は、日本が琉球強奪を完了し、さらに台湾に目をつけることと一体化していたのだ。
馬関条約が締結され、清政府に琉球に再び言及する力はなく、台湾及びその附属諸島(釣魚島諸島を含む)、澎湖諸島、琉球が日本に奪い去られた。だが1941年に中国政府は対日宣戦し、馬関条約を破棄した。その後、日本の天皇はカイロ宣言とポツダム宣言の日本の戦後処理に関する規定を受諾した。これらの規定に基づき、台湾及びその附属諸島、澎湖諸島が中国に復帰するのみならず、歴史上懸案のまま未解決だった琉球問題も再議できる時が到来したのである。(編集NA)
◆は門がまえに虫
●は口へんに葛
「人民網日本語版」2013年5月9日
日本は「騒ぐ」前に中国のミサイルの威力に気づくか(中国網)
2012.10.25 Thu
(2012/10/25 中国網)
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2012-10/25/content_26901156.htm
日本の海上自衛隊は、中日間で釣魚島問題を巡る海洋戦争が勃発した場合の結果を予測した。海自の行動は日本を「奮起」させ、日本の艦艇と航空機は中国解放軍の2つの艦隊を「打ち負かす」行動に出た。この情報は日本メディアに大きく取り上げられ、右翼勢力は「中日間で海洋戦争が勃発すれば中国は間違いなく負ける」と喜んでさえいる。
中国の軍事専門家の多くは、この「海洋戦争に勝つ」という考えを「日本側の一方的な望みであり、現代版の『机上の空論』にすぎない」と笑って済ませている。軍事の常識を少しでもわきまえる人の誰もが、こういった予測はシミュレーションにすぎず、実際に戦うこととは全く違うとわかっている。中日間で本当に海洋戦争が発生した場合、双方の艦艇・航空機が出動する前に、日本側は中国のミサイルの力と威力に気がつくだろうか。
日本が中国の領有権と海洋権益を守る決意と意志、国際社会の日本外交の「合従連衡」策に対する冷ややかな態度、国内における支持率の最低更新を顧みずに「日本は中国に勝つ」と吹聴しているのはなぜか。
その背景には様々な算術と並大抵ならぬ苦心がある。
まずこれは、国内の右翼勢力が後押ししている。日本が近年行う挑発行為、いざこざを起こす行動の多くは右翼勢力が推し進めるもので、中日間の釣魚島問題も右翼勢力が後押しする中でヒートアップした。「戦果」を言い広める行為は釣魚島問題の解決のためにならないばかりか、かえって右翼勢力の気勢を強め、「騒ぐ」意欲をかきたて、下手すると銃撃戦や軍事衝突にもつながりかねない。
2つ目は、中国に対する恐怖感。日本のいわゆる「勝つ」という予測は恐怖感を考慮したものである。中国に対して軍事威嚇や精神的抑圧を加え、平和的交渉で優位に立ち、「戦わずして勝つ」ことをもくろんでいる。野田首相は自衛隊の観閲式で、自民党の安倍晋三総裁の靖国神社参拝について「1ミリも譲る気はない」と発言するなど、中国に「心理戦」を仕掛けた。
3つ目は、内閣支持率を高めること。野田内閣の支持率は18%に落ち込み、「政権維持は難しい」状態だ。日本メディアは、中日関係の悪化は日本の景気回復見通しを暗くすると見ている。「日本が勝つ」という主張が、民衆の失望感と失落感を高めることは確かだ。
日本の軍事行動から、「必ず勝つ」という主張は見掛け倒しであり、不安と失敗感をごまかすための外部に向けた主張だとわかる。中国海軍の艦艇編隊が列島線を出て実施した正常な訓練に対し、日本は「中国軍の艦艇7隻は釣魚島を奪うために島に近づいた」と警戒した。いわゆる「中国の進入」に対して、自衛隊の配備を強化し、海上自衛隊における海兵隊の創設、日米軍事同盟の強化に向けた行動に出た。これらのことから、日本の「勝つ」という気持ちは意気込みに欠け、恐怖感があることがわかる。
軍隊や凶器の使用は最終手段である。国が情勢判断を誤れば、その国民に災難をもたらし、地域の平和をぶち壊すだけだ。敗戦し深刻な影響を受けた日本は戦争の災難がもたらす害を肝に銘じているはずである。戦争を語らず平和を望むことを選択、承諾すべきだが、日本はその逆の行動をとり、戦争を助長、準備し、仕掛けている。これは地域情勢の緊張を高めるだけだ。
中国は日本が戦争予想後にとる「大騒ぎ」という衝動的行動に警戒し、戦争意欲と高まり続ける妄想を打ち破く必要がある。
中国には「ラバか馬を引っ張り出して散歩する」という言葉があり、古くから鬼を恐れず魔を信じない伝統がある。国の領有権というコア利益の保護において、中国の人民と軍隊は害を与える敵に共に対抗しなければならない。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年10月25日
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2012-10/25/content_26901156.htm
日本の海上自衛隊は、中日間で釣魚島問題を巡る海洋戦争が勃発した場合の結果を予測した。海自の行動は日本を「奮起」させ、日本の艦艇と航空機は中国解放軍の2つの艦隊を「打ち負かす」行動に出た。この情報は日本メディアに大きく取り上げられ、右翼勢力は「中日間で海洋戦争が勃発すれば中国は間違いなく負ける」と喜んでさえいる。
中国の軍事専門家の多くは、この「海洋戦争に勝つ」という考えを「日本側の一方的な望みであり、現代版の『机上の空論』にすぎない」と笑って済ませている。軍事の常識を少しでもわきまえる人の誰もが、こういった予測はシミュレーションにすぎず、実際に戦うこととは全く違うとわかっている。中日間で本当に海洋戦争が発生した場合、双方の艦艇・航空機が出動する前に、日本側は中国のミサイルの力と威力に気がつくだろうか。
日本が中国の領有権と海洋権益を守る決意と意志、国際社会の日本外交の「合従連衡」策に対する冷ややかな態度、国内における支持率の最低更新を顧みずに「日本は中国に勝つ」と吹聴しているのはなぜか。
その背景には様々な算術と並大抵ならぬ苦心がある。
まずこれは、国内の右翼勢力が後押ししている。日本が近年行う挑発行為、いざこざを起こす行動の多くは右翼勢力が推し進めるもので、中日間の釣魚島問題も右翼勢力が後押しする中でヒートアップした。「戦果」を言い広める行為は釣魚島問題の解決のためにならないばかりか、かえって右翼勢力の気勢を強め、「騒ぐ」意欲をかきたて、下手すると銃撃戦や軍事衝突にもつながりかねない。
2つ目は、中国に対する恐怖感。日本のいわゆる「勝つ」という予測は恐怖感を考慮したものである。中国に対して軍事威嚇や精神的抑圧を加え、平和的交渉で優位に立ち、「戦わずして勝つ」ことをもくろんでいる。野田首相は自衛隊の観閲式で、自民党の安倍晋三総裁の靖国神社参拝について「1ミリも譲る気はない」と発言するなど、中国に「心理戦」を仕掛けた。
3つ目は、内閣支持率を高めること。野田内閣の支持率は18%に落ち込み、「政権維持は難しい」状態だ。日本メディアは、中日関係の悪化は日本の景気回復見通しを暗くすると見ている。「日本が勝つ」という主張が、民衆の失望感と失落感を高めることは確かだ。
日本の軍事行動から、「必ず勝つ」という主張は見掛け倒しであり、不安と失敗感をごまかすための外部に向けた主張だとわかる。中国海軍の艦艇編隊が列島線を出て実施した正常な訓練に対し、日本は「中国軍の艦艇7隻は釣魚島を奪うために島に近づいた」と警戒した。いわゆる「中国の進入」に対して、自衛隊の配備を強化し、海上自衛隊における海兵隊の創設、日米軍事同盟の強化に向けた行動に出た。これらのことから、日本の「勝つ」という気持ちは意気込みに欠け、恐怖感があることがわかる。
軍隊や凶器の使用は最終手段である。国が情勢判断を誤れば、その国民に災難をもたらし、地域の平和をぶち壊すだけだ。敗戦し深刻な影響を受けた日本は戦争の災難がもたらす害を肝に銘じているはずである。戦争を語らず平和を望むことを選択、承諾すべきだが、日本はその逆の行動をとり、戦争を助長、準備し、仕掛けている。これは地域情勢の緊張を高めるだけだ。
中国は日本が戦争予想後にとる「大騒ぎ」という衝動的行動に警戒し、戦争意欲と高まり続ける妄想を打ち破く必要がある。
中国には「ラバか馬を引っ張り出して散歩する」という言葉があり、古くから鬼を恐れず魔を信じない伝統がある。国の領有権というコア利益の保護において、中国の人民と軍隊は害を与える敵に共に対抗しなければならない。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年10月25日
沖縄本島南で中国海軍3隻、北上中
2012.10.23 Tue
(2012.10.23 12:34 産経新聞)
防衛省は23日午前、沖縄本島の南約470キロの公海上で22日午後5時ごろ、中国海軍のミサイル駆逐艦など艦艇計3隻が沖縄方面に向け北へ時速約25キロで航行しているのを、海上自衛隊のP3C哨戒機が発見したと発表した。
発見されたのは「ルーヤンI級」および「ルーヤンII級」のミサイル駆逐艦と「ジャンカイII級」フリゲート艦の計3隻。このうちルーヤンII級艦は2005年7月就役と比較的新型で、海自が航行を確認したのは初めて。
中国海軍の艦艇をめぐっては、16日にも計7隻が沖縄県の与那国島と西表島の間の日本の接続水域を通過し、尖閣諸島の南西を航行したのが確認されている。
■中国海軍の艦艇3隻 沖縄の南を北上
(NHK)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121023/k10015946371000.html
中国海軍の3隻の艦艇が沖縄の南の海上を北上しているのを、海上自衛隊の哨戒機が確認しました。
このまま北上を続ければ、沖縄周辺の海域を通過する可能性があり、防衛省が監視を続けています。
防衛省によりますと、22日午後5時ごろ、沖縄本島の南およそ470キロの太平洋を中国海軍の艦艇が航行しているのを、海上自衛隊の哨戒機が確認しました。
艦艇はミサイル駆逐艦など3隻で、その後も北上を続けていて、このままのコースを進めば、23日午後、沖縄周辺の海域を通過するとみられるため、防衛省が監視を続けています。
中国海軍の艦艇は、太平洋で訓練を行うため、年に数回、沖縄周辺の海域を行き来していて、主に島どうしの間隔が広く公海上を航行できる、沖縄本島と宮古島の間の海域を通過しています。
しかし、今月16日には、間隔が狭い沖縄県の先島諸島の与那国島と西表島の間を初めて通過し、日本の領海のすぐ外側にある接続水域に入ったあと、一時、尖閣諸島に向かうコースを航行しています。
防衛省は23日午前、沖縄本島の南約470キロの公海上で22日午後5時ごろ、中国海軍のミサイル駆逐艦など艦艇計3隻が沖縄方面に向け北へ時速約25キロで航行しているのを、海上自衛隊のP3C哨戒機が発見したと発表した。
発見されたのは「ルーヤンI級」および「ルーヤンII級」のミサイル駆逐艦と「ジャンカイII級」フリゲート艦の計3隻。このうちルーヤンII級艦は2005年7月就役と比較的新型で、海自が航行を確認したのは初めて。
中国海軍の艦艇をめぐっては、16日にも計7隻が沖縄県の与那国島と西表島の間の日本の接続水域を通過し、尖閣諸島の南西を航行したのが確認されている。
■中国海軍の艦艇3隻 沖縄の南を北上
(NHK)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121023/k10015946371000.html
中国海軍の3隻の艦艇が沖縄の南の海上を北上しているのを、海上自衛隊の哨戒機が確認しました。
このまま北上を続ければ、沖縄周辺の海域を通過する可能性があり、防衛省が監視を続けています。
防衛省によりますと、22日午後5時ごろ、沖縄本島の南およそ470キロの太平洋を中国海軍の艦艇が航行しているのを、海上自衛隊の哨戒機が確認しました。
艦艇はミサイル駆逐艦など3隻で、その後も北上を続けていて、このままのコースを進めば、23日午後、沖縄周辺の海域を通過するとみられるため、防衛省が監視を続けています。
中国海軍の艦艇は、太平洋で訓練を行うため、年に数回、沖縄周辺の海域を行き来していて、主に島どうしの間隔が広く公海上を航行できる、沖縄本島と宮古島の間の海域を通過しています。
しかし、今月16日には、間隔が狭い沖縄県の先島諸島の与那国島と西表島の間を初めて通過し、日本の領海のすぐ外側にある接続水域に入ったあと、一時、尖閣諸島に向かうコースを航行しています。